「結論から申し上げると逆行性健忘と解離性健忘を併発していると考えられますな」
「ぎゃっk……へ、何て?」
「ギャッコウセイケンボウとカイリセイケンボウ。いわゆる『記憶喪失』ですな」
そう告げたのは、井ノ頭と書かれた名札を付けた白髪交じりの医師だ。親とはぐれた子鹿のように困惑している様子の青年に諭すように説明した。
「して、どのくらいの期間の記憶が抜けているんですかい?」
と、尋ねたのは、青年の傍で仁王立ちで立っている壮年の男「神柳匠」だ。ケンジという仕事をしているらしく、今日も初対面と同じ堅苦しそうな上下一揃いの黒い衣服に身を包んでいる。
この男達がいるのは大都会景都の中心も中心。景都大学附属病院の2階、外来診療棟にある脳神経内科の診察室である。
「ふむ……」
神柳の問いに井ノ頭は、すぐには答えず一度青年の方へ目を向けた。そして彼が首肯したのを確認すると、電子カルテに目を移しつつまったりとした口調で答え始めた。
「現時点での検査結果から判断すると、最後に意識を失った半年前から以前の記憶が抜け落ちていますな。また、自身の名前や年齢、職業といった個人的な情報や、人間関係に関する記憶も残っていませんな。 ただし、読み書きや計算といった基本的な知識は残っているので、日常生活に必要な最低限の動作は行えると考えられますな」
「ってことは事件当時の記憶もサッパリ、か……」
井ノ頭の回答を受けて神柳が独り言のようにそう呟くと、今度は井ノ頭の方から質問が飛ぶ。
「ところで、彼の身元について検察側の捜査結果もお聞かせ願えますかな?」
「ん、ああ……そうだな」
すると神柳は、一瞬バツの悪そうな顔をするも、すぐに捜査結果の報告を始めた。
「検察の方でも彼が病院に搬送されてから今日に至るまでの約半年間、警察と協力して国内外のデータベースを元に指紋・DNA・顔照合と行ったが、残念ながら現状身元特定には至っていない状態だ」
「なんと! 検察と警察が総力を上げてもですかな」
「えぇ、恥ずかしながら」
「とはいえ、捜査を経て何かしらの仮説は立っているのではないですかな?」
「……ズケズケと聞くなぁ」
「どうされましたかな?」
「いえ、何も」
井ノ頭の耳には聞こえていなかったみたいだが、青年の耳には確かに神柳の吐いた悪態が聞こえていた。というか寧ろ、青年に愚痴るつもりで言ったのだろう。
神柳はゴホンと一つ咳払いをすると、渋々と井ノ頭の問いに答える。
「あくまでも検察の見解だが、少なくとも彼がこの国の人間である可能性は低いと考えている」
「と、すると?」
「……外国籍または無国籍の人間ではないかと推測している」
そこまで言い切った神柳の顔は、苦い粉薬を飲まされたかのような顔をしていた。恐らく口外したくない情報だったのだろう。所感を述べようと再び口を開こうとしている井ノ頭の口を封殺するかのようにすかさず釘を刺しに行く——
「マジでここだけの話にしといてくださいよ。先生」
「あい、分かってますとも。医師の口は病院のベッドよりも硬いので安心せい」
「若干安心できない例えなんですけど」
そこまで言うと、二人の間で話すことはひとまず尽きたのか、診察室の中はさっきと打って変わって沈黙に包まれた。
「あ、あのー」
その空気を察した青年はここぞとばかりに漸く口を開くと、二人がハッとした顔でこちらを向く。
「そろそろいいです? 僕の質問」
二人の目は「そういえばいた」と言わんばかりのような目をしていた。