「『仮初』か……よく知ってたなこんな言葉」
「あ! 大事な書類に書く時以外は基本『カリソメ』なんで! そこ重要なんで」
「何だそのこだわり」
あれから丸一日が経った昼下がり。
青年の病室には、予告通り彼から名前を聴取するべく神柳が尋ねて来ており、その光景はまるでいつぞやの面会を想起させるような立ち位置だった。
変わっているのは、青年の身体から点滴や酸素マスクの類が取り外されて身軽になっていることと、彼のテンションがちょっと高くなったくらいである。
というのも、青年は知の悦楽に酔いしれていたのだ。
遡ること一日前、診察を終え早速病室に戻り名前の考案を始めた青年は、記憶喪失故の引き出しの少なさから、開始早々産みの苦しみに直面してしまう。
そんな青年を見兼ねた井ノ頭が、彼に国語辞典という書籍の存在を教え、貸し与えると、青年はそこにびっしりと並ぶ未知の言葉とその意味にたちまち目を奪われ、新たな知識が脳内に蓄積されていく感覚に感激し、結局消灯時間ギリギリまで貪るように読み漁り熟考したのだ。
その成果が「仮初」もとい『カリソメ』である。
「まあ、いいんじゃないか。で、他には?」
「っしゃあ! ありがとうございます〜あなたの無理難題に応えるべく丸一日考えた甲斐ありましたわ〜……って、へ? 他?」
「それだけじゃ足りないだろう? ほれ、もう一声」
「いや、これだけですけど」
「じゃあ却下」
「なんで!?」
そして今、彼のテンションが壊れたところだ。青年は頭髪が抜けそうな勢いで頭を掻きむしると、両手を広げて抗議する。
まあ、無理もないだろう。何せ潤沢とは呼べない限られた時間の中で、見出した名前(候補)を無惨にも棄却されたのだから。
「僕の心の中ではもう『カリソメ』なんです。あなたが何て言おうとこの名前で認めてもらいますよ!!」
そう言って青年は神柳の棄却に一切応じることなく食って掛かる。
「悪ぃ悪ぃ、却下は言い過ぎた。冗談冗談」
対する神柳は想定を超える青年の熱量に圧倒されたのか、手を前に出して制止しながらジョーク交じりにクールダウンを促した。
「言っていい冗談と悪い冗談があるだろ!」
とはいえ、それで落ち着く筈もなくその態度が逆に彼を焚き付ける。今回ばかりはマジギレらしい。そこで漸く観念したのか神柳は出していた両手をパンッと合わせて全面降伏の姿勢を取ると——
「わかった! 俺が悪かった! 退院したら景都の美味いもん食わしてやるから」
そう言って食い物で機嫌を取るという何とも古典的な作戦に出る。甘い、甘いぞ神柳。こんな見え見えの策に青年の怒りが治る訳もないだr
「許す!」
「あざす!」
良いの!?
「病院ではお静かに!!」
「「すみません」」
‥…………………………………………………………………………………結局、二人の会話をクールダウンさせたのは病室の前の廊下を通りすがったナースだった。
二人のテンションがマックスボルテージになったと同時に、ガラッと扉を開けると、ピシャッと叱って去って行った。
何だろう、本来見えない聞こえない筈の語り手の私も怒られた気分なんですが。
「「……」」
揃ってお灸を据えられた二人はしばし沈黙していた。
彼らの脳内には「今日は一旦お開きにして、また明日仕切り直そうか」ともよぎったらしいが、その空気を破ったのは神柳だった。声量をいつも以上に絞った上で、会話を再度仕切り直す。
「だが、もう一声欲しいのは本当だ。それだけじゃ姓名としては厳しいな」
「何ですか"ふるねーむ"って?」
神柳のおちゃらけモードが抜けたことを潜在的に察した青年も、訝しんだ表情を維持しつつ聞き慣れない言葉に真剣な声色で疑問を立てる。もちろん、声量を抑えた上で。
そんな青年の純粋無垢な問いに神柳は少し目を丸くすると、次の言葉を考えながらゆっくりとした口調で解説を始めた。
「いいか、小僧。フルネームってのは、姓と名を合わせたものだ。姓は家族や血筋を示すもので、名は個人を識別するためのもの。まあ、この国じゃ大抵の人間が両方持ってるな」
「家族や……"血筋"」
神柳の言葉に青年は少し考え込むように視線を落とす。やけにその言葉が引っ掛かったからだ。しかし彼は話を進める。
「ちなみにだが……ぶっちゃけ『仮初』だけでも在留資格の付与は通ると思う」
「っ! じゃあ何で……?」
神柳の思いもよらない言葉に青年は咄嗟に聞き返した。
別にその姓とやらを付けなくても良いのであれば、さっきの言い合いはとんだ茶番じゃないかと言わんばかりの食い付きで。
その訴え掛けるような青年の目付きは、あの神柳ですら思わず腹の内を明かしそうになったくらいだ。
だが彼もプロだ。そこをグッと飲み込む。
「……姓を付けて欲しいってのは俺のエゴだ」
「エゴ……?」
「俺の都合をお前に押し付けているってことだ。正直、人権的にはアウトな事をしている自覚はある……だが、それでも付けてくれないか」
そして青年に伝えられる範囲の言葉に変換して吐き出すと、最後に「頼む」と言って神柳は頭を下げた。
その姿勢は、これまでデリカシーのない言動を繰り返してきた男とは思えないほど、真摯なものだった。